その、優しさに溢れた時間の中でも、ファータはある一つの考えを捨て切れてはいな
かった。ひたすらに、ある時を待っていたのだった。
 妖精達が決して近寄らない谷がある。谷から吹き上げる強い風のため、どんなに上手
く飛べる妖精であっても、その儚い羽では飛ぶことさえもままならない。その谷に、一
番強い風が吹く時がある。
 今日は、その満月の夜だった。

「私は、谷に行くよ」

 ファータは、まるで歌うようにそう言った。

「そして最後に飛ぶの」

 ろくに立ち上がれなかったファータが、ゆっくりとした動作ではあったが、その時立
ち上がった。もう数日も歩いてさえいなかったのに、その歩みはしっかりとしたものだ
った。

「なぜ? 死にに行くのか?」
「飛びに行くんだって」

 友人の一人が止めたのは当然のことだっただろう。しかし、誰もファータの身体を掴
んでまで止めようとはしなかった。できなかった。

「私はまだ歩ける。でも、これが最後の機会だと思うの」

 きちんと病気を治してから。元気になってから。そういった言葉を、友人の誰もがの
どの奥でかみ殺した。誰もが、それは無理だとわかっていた。

「……なんて、愚かなことを」

 友人の一人が彼女を馬鹿にする発言をした。ファータの知る限り、その友が彼女に対
してそんな言葉を口にしたのは初めてだった。
 ――そしてファータは、笑った。

「そう。たぶん私は、この世界で一番愚かな妖精になるの」
「そして皆に笑われるのか?」
「うん」

 まるで、予想していた答えをもらえた子どものように無邪気にファータは頷いた。

「だからこそ、谷に行くんだよ」

 そう言って、ファータはドアの前に立つ。呆然と見守っていた友人達が、慌ててその
後に続く。

「本当に行くのか?」
「ついていっても構わないか?」
「どうしても行くというのなら、一生お前を許さない。それでも良いのか?」

 全ての質問に、ファータは頷いた。そして、ドアから滑るようにしてその身を投げ出
した。
 ファータは、最初の一瞬だけは滑空するように空を飛び、続く道は、ひたすら歩いた。
その後ろを、友人達が歩く。彼女に声を掛ける者はいなかった。

 そして、月が空の真上に来る頃、妖精達はその谷へと到着した。数時間も歩いていた
というのに、ファータはその間一度も休まなかった。ただ、谷に着いてすぐは、さすが
に腰を降ろして呼吸を落ち着ける必要があった。
 その荒い吐息と、風が耳に当たる音のみが聞こえる静寂の中、ファータを許さないと
言った妖精が、不機嫌そうに彼女に話しかけた。

「愚かな奴だ。死んだ後まで、皆に笑われることになるぞ」
「うん、だからだよ」
「さっきもそう言ったな。お前は、道化になりたいのか? それが本当の望みなのか?」
「多分ね」

 皆の荒い呼吸の音が、次第に治まっていった。そして誰もが、ファータの次の言葉を
待っていた。それを察して、ファータはぽつりぽつりと話し始めた。

「私は、私のなれる何者かになりたかった」

 ファータは、皆の沈黙に満足し、続ける。

 ――例えそれが道化であっても、ただの飛べない妖精であるよりは遙かに良かった。
本当は、もっと別のなにかになれれば良いのだけど、それも無理だから。
 私はいつも笑われていた。飛べない妖精。地を這う妖精。それもいい。どうせ道化な
ら、最後までその役を貫き通すもいいだろう。
 その最後に、とびきり愚かで、笑えることをすればいいじゃないか。

 友人の一人が、その自嘲を切り裂くように叫ぶ。

「君には歌があるじゃないか」
「それは誰にでもあるものじゃない」
「君の歌声は素晴らしい」
「あなたたちと……他の妖精と同じくらいは素晴らしいかもしれないね」

 ファータの言葉は、真実だった。きっと、ファータが皆と同じように、普通に飛ぶこ
とのできる妖精だったのなら、誰も彼女の歌声が素晴らしいとは言わなかっただろう。
もともと、妖精の歌声は素晴らしいのだ。

「私があのままベッドの上で消えて無くなったとしたら、私の存在はなんのためにあっ
たんだろう?」

 その問いに答えられる者はいない。ファータは、囁くように続けた。

 ――飛べない愚かな妖精が、飛ぶためにこの谷に身を投げたら、その愚かさ故に私は
誰からも忘れ去られない存在になるだろう。ある者は笑い、ある者は嘲り……そしてあ
る者達は、私を憎むだろう。

 最後の言葉は、友人達に向けて放たれた。

 ――そして、私のことは語り継がれていくことになる。例え私が死しても。例え私を
愛してくれた人達が死しても。その話だけは消えないだろう。

 その時、不意に風が凪いだ。強い風が吹く前の、わずかな間隙。ファータは、ためら
わずに谷に向かって歩き出した。
 その後ろに、すがるように友人達が続く。一人がファータの肩を掴み、半ば無理矢理
彼女の身体を振り向かせた。ただ……言葉はなく、その友は自分の羽根を一枚もぎとり、
彼女の手に押しつけた。ファータがそれを握りしめようとする直前、周りにいた友人達
の全ての手が、彼女の手に添えられた。ファータは、その数枚の羽根を握りしめ、密か
に泣いた。しかし泣き出す前に、ファータは後ろを向いていたため、友人の誰もがその
涙を見ることはできなかった。
 最後に友人の一人が、ぽつりともらした。

「一緒にいっても構わないか?」

 ファータは後ろを向いたまま首を横に振り、最後の言葉を発した。

「あなたたちは、私の愚かさをみんなに伝えてくれないと」

 いつもの彼女の、笑うような声だった。ただし、その時彼女がどんな表情をしていた
かは、ファータ自身にもわからなかった。

 そして――風の音が再び鳴り始め、ファータは、空へと舞い上がった。暴力的な風に
対して、その小さな身体と綻んだ羽根はあまりにも無力だった。風の音だけが強くなる
中、友人達は、身じろぎ一つしなかった。

 

次のページへ